第二次上田合戦関ヶ原の合戦に間に合わず!徳川の大軍の足止めに成功した合戦

第二次上田合戦

上田合戦 合戦場マップ

徳川・北条の領地争いの末、真田昌幸公が徳川家康にそむくかたちで起った第一次上田合戦、関ヶ原の合戦の前哨戦となった第二次上田合戦。二度にわたり徳川軍を撃退した上田合戦の重要なポイントとなった場所を紹介します。

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※掲載している情報には諸説あり、上田軍記をベースに掲載しております。

時代背景

豊臣秀吉が死去し、家康は秀吉の遺言で秀頼を託され、実際の政権運営を担っていた五大老などの役職から、政権運営の実権をじわじわと我が手にしていった。そのような振る舞いに対して秀吉に仕えていた諸大名の中でも徳川の振る舞いに対してよく思わぬものもいた。五大老の一人、上杉景勝は家康からの大阪への上洛をことごとく拒み、家康から謀反の疑いを掛けられてしまう。

犬伏の別れ

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が亡くなりました。
それから2年ほど経った慶長5年(1600年)。
上杉景勝が謀反を企てているとして徳川家康の大軍が会津征伐へ向かいました。
真田氏父子3人も徳川勢に加わり、会津へ向かいました。

そのころ、京都で石田三成が挙兵します。

真田氏が会津へ向かう途中、真田氏へ石田三成勢に加わる誘いの書状が届きました。
昌幸公は様々なことを考えぬき、父の昌幸公と次男の幸村公は石田勢(関が原の戦いでは西軍)へ、長男の信幸公は徳川勢(関が原の戦いでは東軍)につくこと事にしました。
信幸公はそのまま会津へ向かい、昌幸公と幸村公は沼田城あたりを通り、上田城に引き返しました。

上田城へ向け出陣

石田三成勢を討伐するため、徳川秀忠は徳川勢の本隊を率いて下野の宇都宮を出発しました。
秀忠は、宇都宮から直接上洛せず、石田勢についた真田昌幸公・幸村公父子のいる信濃の上田城を攻め落としてから合流する予定を立て、総勢約38,000の軍勢で、中山道から上野を抜け信濃に入りました。

9月2日、秀忠は小諸城に到着しました。

9月3日、秀忠は本多忠政・真田信幸公らを使者に送り、上田城を明け渡すよう伝えました。
昌幸は両者を信濃国分寺でもてなし、使者の申し出に昌幸は「家来を説得してからから返事をしたい」として使者を返しました。
その後昌幸公は、返事を先延ばしにして、その間に上田城内の建築修繕など戦いの準備を進めました。

9月4日、徳川勢の使者から返事の催促があり、昌幸公は、石田三成方に加勢することを告げ、徳川の使者を返しました。

上田城へ攻撃

9月4日、返事を聞いた秀忠は激怒しました。
夜中に小諸を出発し、染屋台に陣を敷き、上田城攻めを開始しました。

徳川勢を迎え撃つ真田の兵力は約3,000でした。

9月5日、秀忠の命により真田信幸公は、砥石城攻めに向かいました。
砥石城を守っていた真田幸村公は、兄の信幸と戦うことを避けるため、砥石城を捨てて上田城へ戻りました。

9月6日、秀忠は上田城への総攻撃を命じました。
真田勢は、小競り合いを繰り返しながら、上田城へ退却したように装います。
そうとも知らず、追撃してくる徳川勢を城内から戦っては退き、退いては戦いを繰り返しました。

徳川軍撤退、関が原へ

小競り合いを繰り返しならが時が過ぎ、結局、徳川勢は上田城を攻略することはできませんでした。
秀忠は上田城の攻略を諦め小諸城に撤退し、上田城の押さえとして仙石秀久・真田信幸公らを残しました。

9月11日、秀忠の軍勢は関が原へ向け、真田の領地の和田峠を越えず、徳川の領地の役の行者を越えて、中山道の木曽路へ移動を開始しました。

9月15日、関が原の戦いがはじまり、徳川勢の東軍が勝利しました。
秀忠が勝利を知ったのは、木曽路あたりでした。結局、徳川勢の本隊約38,000は関が原の合戦に間に合うことはできませんでした。

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